上代日本史概說 |
推古天皇即位から、710年に平城京に遷都までの時期は、飛鳥時代(593 年~710年)といい、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。この時期は、奴隷制度の衰退や封建制度の発達の時期でもある。当時の仏教は日本に伝入したばかりだが、早くも朝廷二大勢力にうち蘇我氏(百濟渡來人)に取り入れ、そして587年(用明二年)に天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。 当時、王宮や王族の住居が全部奈良盆地南部の飛鳥地方に集中しており、飛鳥は当然のように都となる。そこで蘇我氏は、仏教が王族の人に広まるように、飛鳥寺を建てた。また、舒明天皇の百濟大寺や聖徳太子の四天王寺、法隆寺などが建てられるのもこの時期である。このときからお寺はだんだん古墳に代わって貴族たちの威光を示す象徴となっている。 飛鳥時代(593年~710年)是從推古天皇即位時起,到710年奈良朝興起以前的時期。這個時期剛好面臨了奴隸制度的衰落與瓦解,封建制度的萌芽與發展的時期。飛鳥時代得名自奈良縣的飛鳥地方(現在的明日香村,當時的都城藤原京)。佛教在這一時期得到朝廷兩大勢力之一的蘇我氏(百濟渡來人)的支持,而另一勢力的物部氏則支持傳統的神道教,雙方發生激烈衝突。587年的衣折戰役中,蘇我馬子擊敗物部守屋,取得對朝廷的控制權。 奈良盆地南部的飛鳥地方除了有王宮外,也是王族們建設宅邸的地區。因為王宮與王權集中於飛鳥地方,使此地嚴然成為日本的國都。此時的蘇我氏與王族推廣以佛教為中心的文化,建立了飛鳥寺。據說舒明天皇所建立的百濟大寺與聖德太子所建的四天王寺、法隆寺都是在這個時期成立的,寺廟的興盛取代了古墳的地位,成為豪族展現權威的新指標。 |
592年、蘇我氏と親戚関係を持っている御食炊屋姫は豊浦宮に即位、聖徳太子を皇太子・摂政に任命。そして聖徳太子の発案により遣隋使が送られ、十七条憲法と冠位十二階の制定など、王権を固めるための政治改革が始まる。しかし蘇我氏は権力のため改革を反対し、蘇我入鹿が山背大兄王(聖徳太子の息子)を討滅した。その反発に、645年中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、蘇我入鹿が暗殺され、蘇我の勢力は大幅にそがれた。その後、新たに即位した孝徳天皇は改新の詔を宣して、次々と改革を進めていった(大化の改新) |
文獻參考: 豬尾和広ら編、『書きこみ教科書 詳說日本史』、山川出版社、2006。 オフィス.ポストイット、『もう一度学びたい 日本の歴史』、東西社、2006。 |