城地 茂
Dai Zhen's Proofreading for Master Sun's Mathematical Manual
Shigeru Jochi
本章は、戴震の業績のうち、古典数学書の整理、復刻について論じるものである。その
うち、戴震以後最大の校勘作業を実施した銭宝〓が、一度ならず二度までも論文(註1)
で戴震に反駁した『孫子算経』巻中、第20題の校勘問題を考えてみたい。
1)古典数学の保存状況
『算数書』(B.C.186 年頃)以来の中国数学が後漢の初めに『九章算術』(50年頃)と
して纏めるに至って、籌を主体とする古典数学は体系を備えることになった。三国、南北
朝の成果を加味して、唐代に李淳風らの手によって顕慶元年(656年)『算経十書』として
集大成された。国子監で官吏養成の為の教科書が作られたのである。特に、『孫子算経』
( 400年頃)は初等教科書として適していたので、入学後、最初に教育されていた(註2
)。
唐末から五代の戦乱で教育機関は混乱し、多くの書が失われた。北宋の時代になり、元
豊7年(1084年)『算経十書』が復刻されたが、これも靖康2年(1127年)、金が都開封
を落とし、その多くが失われてしまった。南宋の鮑澣之が嘉定5年(1212年)から『元豊
本』の復刻作業に着手した。これが、現存する最古の『算経十書』、所謂、『南宋本』で
ある。しかし、現存するものは10種のうち6種に過ぎず、今となってはその全容を知るこ
とはできない。『孫子算経』は、明代の集書家、毛晉の汲古閣を経て、現在、上海図書館
に残されている(註3)。
また、宋元代は、『算経十書』の基礎の上に天元術といわれる代数的数学が宋元時代の
発達し、中国数学の黄金期を迎える。しかし、明代になって商業が発達し、珠算が普及す
ると、以前とは違った種類の数学が発展することになる。算盤は、桁数が限られているの
で、各次の項を配列するには不向きである。その計算速度の高さを生かした四則演算主体
の商業計算が数学の主流になった。更に、珠算の欠点だった2次、3次方程式(開平方、
開立方)を珠算によって解いた『算法統宗』(程大位、1592年)が著されると、古来の籌
による数学は殆ど忘れ去られてしまった。
こうしたなかで、古典数学を保存したのが、『永楽大典』(1407年)である。その編集
方針は、引用した書籍はその全文を載せるというものだった。そのため、宮廷という限ら
れた範囲だけであるが、清代まで古典数学を伝えることができたのである。
戴震の活躍した清代前期は、復古主義の全盛期である。と言うより、戴震がその潮流、
考証学を創ったのである。古典に対する信仰とも言える信頼、及びその古典を解釈するた
めの教養の涵養を重視していた。その教養とは、自然科学から人文科学にわたり、また、
中学(中国学)に限らず、広く西洋の西学までも含んでいた。
乾隆38年(1773年)、戴震は、挙人の身分だったが、于文襄、紀文達、裘文達の推薦に
よって四庫館の纂修官に抜擢された。これによって、『永楽大典』を閲覧する機会に恵ま
れた。そして、『算経十書』を復刻している。問題の『孫子算経』は、翌乾隆39年(1774
年)10月30日に段玉裁にあてた手紙の中で、
「数月来、纂次『永楽大典』内、散篇於『儀礼』得張淳識李如圭集釈。於算学
得『九章』『海島』『孫子』『五曹』『夏侯陽』五種算経、皆久佚、而存於是
者可貴也」
と、発見を伝えている。この後、乾隆41年(1776年)2月に『孫子算経』の校正が終わっ
ている。
銭宝〓が指摘する巻中、第20題は、
「今有積三万五千歩、問為円幾何。
答曰。六百四十八歩一千二百九十六分歩之九十六。
術曰。置積三万五千歩、以一十二乗之、得四十二万為実。次借一算為下法。
歩之超一位至百而止。上商置六百於実之上。副置六万於実之下、下法之上、名
為方法。命上商六百、除実。除訖、倍方法。方法一退。下法再退。復置上商四
十以次前商、副置四百於方法之下、下法之上、名為廉法。方廉各命上商四十、
以除実。除訖、倍廉法。従方法、方法一退。下法再退。復置上商八以次前商、
副置八於方法之下、下法之上、名為隅法。方廉隅、各命上商八、以除実。除訖
、倍隅法、従方法。上商得六百四十八、下法得一千二百九十六、無尽九十六。
是為周(註4)六百四十八歩一千二百九十六分歩之九十六」
という問題である。
円があり、その面積が3万5000平方歩でれば、円周は幾らになるかという問題である。
『孫子算経』は、先に述べたように入門書なので、全巻で円周率πは3を使っている。
〓枠01〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 2πr= 4πS 〓
〓 〓 12S = 420000 〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ところが、この値は、無理数で開くことができないので、その近似値を求めなければな
らない。そこで、『孫子算経』では、
〓枠03〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 96 〓
〓 420000= (6482 +96)〓648+ 〓
〓 2×648+1 〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓枠04〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓一般には、 r 〓
〓 (a2 +r)〓a+ ―――――――――1)
〓 2a+1
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
となっている。『南宋本』『永楽大典』では、本文の下線部が「七」になっており、そ
れを戴震が「六」に校正したのである。つまり、1)式の+1は余分であるとしたのである
。これは、この問題の前の問題である第19題で、
〓枠05〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 r 〓
〓 (a2 +r)〓a+ 〓
〓 2a
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
となっていることから校正したのである。
しかし、銭宝〓は、以下で詳述する劉徽が既に上限と下限を求めていたという事実から
、戴震の校正は行き過ぎとして、原本どうり、「七」にすることを主張した。たった1字
の校正であるが、これは、中国数学史の上で、非常に大きな問題である。中国数学では、
答えが2つになってしまうことを容認していたかどうかという、その性格付けを左右する
問題だからである。
劉徽が示した、「開無尽法」の上限と下限とを考える前に、『九章算術』巻4第16題「
開方術」の「開無尽法」を見てみよう。
「若開之無尽者為不可開、当以面命之」
開くことができない場合は、「面」を使った分数で表せ、というのである。この「面」
というのは、「開方術」は幾何的に考えているので、開く数値Sから整数部a2 を引いた
残りの矩部rは図2のように表せる。
〓枠02〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 〓
〓 x x r 〓
〓 〓
〓 x a a 〓
〓 a a2 〓――――――――面―――――――――〓 〓
〓 〓
〓 〓
〓 a x 〓
〓 図 1 図 2 〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ここで、求める数値xは、rを「面」2a+xで割った値である。勿論、「面」の中に
も未知数xが含まれているので、この処置が問題である。
劉徽は、x<1であることに注目して、
術或有以借算加定法而命分者、雖粗相近、不可用也。凡開積為方、方之自乗当
還複其積分。令不加借算而命分、則常微小。其加借算而命分、則又微多(後略)
」
〓枠06〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 r r 〓
〓 >x> 〓
〓 2a 2a+1 〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ということを示した。
銭宝〓はこの事実を踏まえて、『孫子算経』では、2種類の答え方を示したと主張する
。 しかし、中国数学では、事実の証明や求め方より、計算結果を重視するという伝統が
ある。答えは、一義的に求めなけれならないのである(註3)。
歴代の「開無尽法」を見ても、
名称 著者 年代 公式
『張丘建算経』 巻中、第20題 張丘建 466年頃 √[(a+b)2 r] 〓(a+b)+r/2a
『周髀算経』注、巻上 甄鸞 500年頃 √(a2 +r) 〓a+r/(2a+1)
『夏侯陽算経』 巻上、第7題 韓延 700年頃 √(a2 +r) 〓a・・・r
『数書九章』 秦九韶 1247年
〓進一位 巻15「計立方営」 √(a2 +r) 〓a+1
|加借算 巻6「環田三積」 √(a2 +r) 〓a+r/(2a+1)
〓進退開除 巻12「屯積量容」 小数点以下計算を継続
『続古摘奇算法』巻下、第18題 楊輝 1275年 √(a2 +r) 〓a+r/(2a+0.1)
『算法統宗』 巻6(註4) 程大位 1592年 √(a2 +r) 〓a+r/(2a+1)
となっている。『数書九章』では3種類の答えがあるが、「進一位」は切り上げただけ
で、また、「進退開除」は、計算を続けることを示しただけの単純なもので、実質は、「
加借算」だけである。
尚、『張丘建算経』は、「実」が0になった段階で、「法」の数値処理を止めてしまっ
たためで、r/(2a+1)の誤りである。また、『楊輝算法』も位取りを誤ったと考えられる
。したがって、余りを表記するといった単純な方法は除き、劉徽の示した上限か下限、ど
ちらか一方を答えとしていることになる。
したがって、『孫子算経』も一つの答えだけを記述していたと考えるべきではないだろ
うか。
また、『孫子算経』編集の目的も考えるべきである。『孫子算経』は唐代に技術官吏を
養成するための教科書として編纂されたものである。しかも、入学後、かなり早い時期、
少なくとも、基本となる『九章算術』より早く教育されたものであり、初学者が混乱しな
いように、答え、術は単純になっている。これは、円周率を3としていることなどもそれ
を示している。ここからも、2種類の解法があったとは考え難い。
また、本文の「答」も戴震が校正したように「六」になっている。更に、「術」には何
処にも「借算」を加えるということは書かれていない。この術文に従えば、やはり、「六
」とすべきである。
以上の数学史的考察、『孫子算経』の編纂目的、本文の3点から考えて、戴震が行った
校正は正しいものだったと言える。
(註)
1 銭宝〓、「孫子算経考」(『科学』14巻2号、1929年。『銭宝〓科学史論文選集』
、1983年)。銭宝〓、「戴震算学天文著作考」(『浙江大学科学報告』1巻1号、19
34年。『銭宝〓科学史論文選集』、1983年)。しかし、銭宝〓校点、『算経十書』下
巻、科学出版社、1963年、p.302 では、戴震に従っている。
2 『唐令』自身は散逸してしまったが、『唐六典』巻21や『新唐書』選挙志上によれ
ば、各数学書の履修期間は、
「凡算学、『孫子』『五曹』共限一歳、『九章』『海島』共三歳、『張丘
建』『夏侯陽』各一歳、『周髀』『五経算』共一歳、『綴術』四歳、『緝
古』三歳、『記遺』『三等数』皆兼習之」
とあり、『孫子算経』が筆頭に記載されており、この順番で教育されていたようであ
る。
3 現存する『孫子算経』には、汲古閣では明代以降の善本を意味する「古餘珍蔵、子
孫永宝」の印が残されている。
4 各本、「方」となっているが、今、「周」に改める。
3 『隋書』「律暦志」によれば、祖沖之は、円周率を
3.1415926 <π<3.1415927
と上限と下限を求めていたが、実際に計算するときには、
〓枠07〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓 22 355 〓
〓 疎率〓 密率〓 〓
〓 7 113 〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
4 『算法統宗』巻6「開平方」では、
「今有方磚一千四百六十一塊、欲為平方。問一面方若干。
答曰。方面三十八塊、七十七分塊之十七。
(前略)却将所商三十八、倍之再添一塊共得一方数七十七、命一十七。
何謂之命、以原総数内除十『七』、加上七十七便商得面方一→『三』十
九塊、因此不及而為之命」
となっており、意味が不明(『明治前日本数学史』巻1、p.422 )であったが、「十
」の後に『七』を補い、「一」を『三』に改めることによって、以下の公式になるこ
とが分かる。
Back to Home Page